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Historyの変更点

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///歴史
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!!!駒場小劇場
One or two to rmeember, that is.
!!1980年ごろ 
1979年、綺畸、如月小春作、演出、「ロミオとフリージアのある食卓」上演。

1981年、夢の遊眠社、「少年狩り」で紀伊国屋ホールに進出。

僕の不確かな記憶によると、80年代の日本の小劇場ブームを支える劇団の一つである第三舞台 もこの頃早稲田で旗揚げしています。当時、駒場に限らず学生演劇はある意味花盛りで、学内の 劇研なり、サークルなりを元にして生まれた劇団が、学内の空間で人気をはくし、外のもっと 大きな劇場に進出してゆく(駅前劇場〜本多劇場〜紀伊国屋ホール)という図式が成立していきました。

この時期、遊眠社、綺畸のほかに活躍した劇団は、
*夢見るOn The Rock
*ネヴァーランド・ミュージカル・コミュニティー(現プラチナ・ペーパーズ主宰 堤泰之氏)
*冥風過劇団(現ク・ナウカ主宰 宮城聰)
などです。

当時駒場小劇場は若い演劇人の養成機関としての役割を果たし、この他にも演劇界 に限らず多数の人材を輩出してきました。


!!1990年代 
90年代に入ると一時の小劇場ブームは静まり、駒場小劇場から巣立ってゆく劇団の数も 以前に比べると少なくはなりましたが、東京女子大学、東京大学の学生劇団として生まれ変わった 綺畸、筑波大付属駒場高校から生まれた劇団BISHOP、東大劇研の流れを引くシアターマーキュリー などの団体が定期的に公演活動を行っていました。 

この時期に活躍した劇団
*Zicentury
*Zinjanthorops boisei
*走れ!ばばあの群れ
*単品開発
など

1992年、旧駒場寮の取り壊し計画が持ち上がり、それに伴って駒場小劇場も廃止されることが 明らかになりました。代替施設の建設は当初から計画されていたが、具体的な性格が不明だったこともあり、駒場小劇場を 管理していた北ホール委員会と学部との間で度重なる話し合いがもたれ、学生側の要望を 設計段階から取り入れて新しいホールの建設を行うことが決められました。 これが現在の駒場小空間です。 駒場小空間は1997年夏に着工し、1年後の98年夏に完成しました。新ホールの完成に伴って 駒場小劇場は閉鎖され、20年以上の劇場としての役目に幕を閉じました。 

では、駒場小劇場はどのような空間だったのでしょうか。 

一言でいえば廃墟の中の廃墟、それもちょっと見たことがないくらいぼろぼろの建物でした。 (1996年当時)

横15メートル、奥行き20メートル(97年に新ホール建設のため切断され!5メートルほど短くなる) くらいの何もない空間に、片側だけ鉄骨を組んで、仮の天井にしてありました。 もう片方は鉄パイプで組んだ構造があって、 この両方に照明をつれるようにしてありました。もちろん舞台も客席もないので、デカ台と呼ばれる3?×6?×50?の 台を移動して、その都度舞台と客席を組んではばらしていました。 ある意味駒場小劇場は劇場としてちゃんとした体裁が整っているところではなかったのですが、 その分、使う側にとっては非常に自由に使える空間でもあり、割と長い間(1〜2週間)使える こともあって、駒場小劇場が多数の演劇人を輩出したこともうなずけます。

駒場小空間の設計において学生側が出した要望というのも、この駒場小劇場の利点を 残しながら、(自由度を減らさずに)新しい設備を導入して使いやすくするというものでした。 それはある意味駒場小劇場の危険性をも受け継ぐことになりました。 駒場小劇場では5メートルの高さの1本の鉄パイプの上で灯体を釣るとかいったことが 日常的に行われていて、作業に熟練した人でないととても扱えるものではありませんでした。 現在の駒場小空間においても事情はそれほど変ってません。きちんとした知識がないと たやすく転落事故、落下事故を招くことになります。 そういう事情もあって、駒場小劇場においては北ホール委員会と呼ばれる自治組織が作られ、 それに加盟していない団体の使用を原則として禁止していました。北ホール委員会に加盟するには ほかの劇場において2回以上の公演経験があるという厳しい制限が設けられていました。

現在駒場小空間ではこのような使用条件は設けられていませんが、その代わり 総務部と呼ばれる団体による審査を受けないといけないことになっています。 

!!!駒場小空間
!!1997年 
旧駒場寮の廃寮に伴い廃止される駒場小劇場および旧寮食堂南ホールの代替施設として 着工。 

!!1998年 
7月、完成。柿落としとして教養学部主催「書物」、小鳥クロックワーク「てれびはぼくをだめにする」 が行われる。
この頃より旧北ホール委員会と学生課の間において非公式に協議の場がもたれ、 運営のあり方などについて意見交換が行われる。
7月、第1回運営協議会が行われ、多目的ホール使用細則の作成が求められる。
その後、旧北ホール委員会のメンバーを中心に多目的ホール総務部が仮発足し、 使用細則の作成にあたる。
11月、多目的ホール使用細則が運営協議会の承認を得て施行される。

第1回多目的ホール使用団体連絡会議が開催され、総務部の承認、今後の運営方針等について 話し合われる。
この頃、総務部の要望により追加の機材を購入。
総務部で多目的ホールの通称を募集、「駒場小空間」という名称に落ち着く。
その後、大きな事故もなく現在にいたる。

駒場小空間は東大駒場キャンパスの生協の前の道をまっすぐ行って生協書籍部の奥にある 鉄筋コンクリート立ての(名前に反して)大きな建物です。 内部は縦、横16.5メートル、高さ7メートルのがらんとした直方体の空間になっています。 全体は3階建てですが、劇場部分は3階まで吹き抜けになっていて、 2階にあたるギャラリー、調光室、3階にあたるキャットウォーク間で階段が続いています。 1階には劇場のほかにロビー、楽屋、空調室、トイレ、倉庫などがあり、この建物のみで きちんと劇場の機能を果たすことが出来ます。 内部は常設の舞台や客席などがなく、平らな床があるだけなので 通常は練習用のスペースとして使用できます。 公演時には100枚ほどある平台などを利用して客席を組み、終わったらばらしてしまいます。 その他燈体、調光卓、スピーカー、アンプ、各種デッキ、ミキサー、ワイヤレスマイクなど、充実した機材が利用できます。